キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


士師記の時代の悲劇
   
2004.3.2(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
士師記 2章1〜3節
   さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたを
  エジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしは
  あなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んでは
  ならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわた
  しの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。
  『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、
  彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。』」

士師記 2章13〜22節
   彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに
  向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回り
  の敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことがで
  きなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主
  が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。その
  とき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、
  彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを
  拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、
  先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場
  合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の
  手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、
  主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻り
  して、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを
  拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。それで、主の怒りがイ
  スラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖
  たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもま
  た、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼
  らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、こ
  れらの国民によってイスラエルを試みるためである。」

士師記 3章5〜8節
   イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間
  に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子た
  ちに与え、彼らの神々に仕えた。こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行な
  い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。

士師記 3章9・10節
   イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひと
  りの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。主の霊が彼の上にあっ
  た。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュ
  アタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。


 先週の火曜日はお休みしてしまいました。沖縄の喜屋武兄弟の88歳になられたお母様が召されましたので、葬儀のために出かけていたのです。出かけるとき、いつも何のために行くのか、はっきり分かりません。今回もそうだったのです。
 途中、飛行機の中で、一人のスチュワーデスとちょっと話すことができました。彼女は非常に喜んでリンデの本を受け取られました。もしかすると葬儀のためではなくて、彼女と会うために行ったのかもしれないと思ったのです。
 葬儀には900人以上集まったのです。みな、イエス様のことを聞き、イエス様のことを考えるようになったのです。召されたお母様は、28歳の時、ご主人を戦争で亡くされたのです。苦労されましたし、悩まれました。けれども、息子である喜屋武兄弟は、「母は、苦しむことによって導かれ、救われました。そして私も全く同じです。倒れてから、初めて人生の目的について考えるようになり、イエス様を知るようになったのです」と言われたのです。やはり、あのスチュワーデスのために行ったのではないらしい。あの900人のためではないかと思ったのです。(笑)

 けれども、葬儀が終わった後、集会所で、あるご夫婦が待っておられたのです。結局、このご夫婦のために行ったのだと思います。(笑)この二人のために、ぜひ祈ってください。「本当の、みこころにかなうご夫婦になられるように」と。
 彼らには三人の男の子が与えられ、さらに欲しくて欲しくて、女の子が与えられました。けれども、生まれた赤ちゃんは病気でした。肝臓が働かなくなってしまい、沖縄で手術をしたけれども、日本の医者は、「もう駄目です。あきらめてください」と言うのです。  
 けれども、母親として、あきらめられなかったので、結局、アメリカのボストンまで行って、2年半の間、向こうに住むようになりました。向こうでは、…はっきり覚えていませんが、確か…、1歳の亡くなった子どもの肝臓をとって移植したのです。
 だから、女の子は19年間生きるようになったのです。けれどもずっと病院生活でした。母親だったら、分かるでしょう。弱い子どものために、病気の子どものために、全力を尽くします。結果として、本人は気がつかなかったかもしれないけれど、「他の子どもと主人は、別にどうでもいい」ということになってしまったのです。
 ですから、ご主人にとって面白くなかったかもしれません。夜、あまり家に帰らないのです。大きな病院の事務の責任者で、彼のお兄さんは院長です。結局、仕事が好きでしかたがなかったのです。ですから、病院で頑張る方が、面白くない家に帰るよりはいいと思ったのです。結局、「あなたはあなた。私は私」、そういう夫婦になってしまったのです。奥様は、絶対に頭を下げませんでした。「自分が正しい」と思ったからです。(笑)
けれども、奇跡が起こったのです。先々週の土曜日、奥様は、導かれ、救われたのです。17年前、東京のある病院で会った時には、「結構です」と、全然受け入れようとしませんでした。まともな女性でしたから。(笑)なぜなら、問題を持つと、宗教家たちは、みんな飛んで来るでしょう。「私のところの宗教に入って、金を出せば、大丈夫。子どもは治ります」と。だから彼女は、「もう結構です」と言ったのです。けれども、彼女は導かれるようになり、「イエス様は宗教家ではない」と本当に分かった時、嬉しくなったのです。そして素直に信じました。
 それから、先々週の土曜日に、奇跡が起こったのです。彼女はご主人に謝ったのです。ちょっと考えられないことです。「19年間、私はわがままでした。病気の娘だけを大切にしてごめんなさい」と。その結果、喜屋武兄弟のお母様の葬儀の後、集会所で待っていたのです。二人は本当に一生懸命聞いて、素直に祈りました。そして二日後、19歳の娘は召されたのです。タイミングは最高ではないでしょうか。ちょっと考えられないほどです。
ですから、先週は2回も沖縄まで行く特権が与えられたのです。(笑)あのご夫婦のために、ぜひ祈ってください。


 先々週の火曜日でしたか、私たちは、カレブについて考えました。彼は、最後まで主に従ったのです。「主に従い通す秘訣とは、他の者と違った心を持つことである」と、一緒に考えてまいりました。
 このカレブという男は、絶えず主により頼む必要性が分かったのです。彼は自分の兄弟たちに捨てられた時、人々に攻撃された時、そして荒野の試練を受けた時、主により頼んだのです。主により頼む秘訣とは、もちろん人間の努力の結果ではありません。主は真実で忠実であられるからです。私たちは不真実であっても、主は違います。変わることのないお方です。

 イスラエルの歴史は、本当に考えられないほどすばらしいものです。
ヨシュア記から2、3箇所、読みましょう。
ヨシュア記 1章2・3節
  「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨル
  ダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたが
  たが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに
  与えている。」

5・6節
  「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わた
  しは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さ
  ず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先
  祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」

9節
  「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。
  おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとと
  もにあるからである。」

モーセはこのように、カレブの友だちで、後継ぎであるヨシュアに言ったのです。

 私たちの主イエス様は、祈りの中で、次のように言われました。
ヨハネの福音書 17章4節
  「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、
  地上であなたの栄光を現わしました。」

すばらしい告白であり、また証しではないでしょうか。

 私たちは、私たち自身の過去を振り返って見ると、このように言えないのではないでしょうか。どうしてもやりたいと思っていたこと、どうしてもしなければならなかったことが、なんと多くあることでしょう。また、どうしても訪問したいと思った人たちのところや、見舞いに行かなければならなかった人たちのところに、行くことができなかったことも少なくないのではないでしょうか。また、どうしても主のみもとに導きたいと祈りながらも、導くことができなかった人たちも大勢いるのではないでしょうか。また、自分の家族や親戚、さらには友人などに、依然として悪魔の手に渡されているままの人が、なんと大勢いるのではないでしょうか。
 このように考えてくると、未解決、未完成に終わってしまったことが、次から次へと、思い出されます。

 これと同じように、旧約聖書におけるイスラエルの民も、主の前に悔い改めなければならなかったことが数多くありました。
 士師記の時代について考えてみると、分かります。士師記という本は、聖書の中でも、特にひどい書物です。その時代には、未解決の課題が多く残されてしまい、それが一つの大きな悲劇を呼び起こしているのです。
 士師記の前の、ヨシュア記においては、イスラエルの民、主の民が、主なる神によって約束された土地へ導き入れられたことが、書き記されています。みんな、大いに喜んで、すばらしかったのです。
 ヨシュアの時代には、初めから勝利が続き、その後も勝利から勝利へと、勝利を続けた時代であったことが分かります。その時の主の目的は、カナン、すなわち約束された土地全部を、イスラエルの民が占領し、すべての「意識して主の救いを拒んだ人々」を追放、あるいは殺害することでした。
 けれども、ヨシュア記の終わりの章を見ると、神の民が激しく戦い続けることをやめて、その土地に定住してしまったことが分かります。このように、主なる神の命令に従わなかったため、異邦人たちが約束された地から消滅してしまうことなく、その地に留まったので、結果として、主のご目的が達成されないことになってしまったのです。

 イスラエルの民は、主によって選ばれた民であり、従って、「主の民」と言っても、さしつかえない者たちでした。彼らは、「その土地を、全部占領するように」という主の召しを正しく知ることができたはずです。彼らは、「主のご目的は何であるか」ということも、知っていたはずです。
 初めは、彼らも、主のご目的を達成することが、ただ一つの課題であるということを、正しく知りました。従って、初めは大喜びで主に従って戦い続けたのですが、それが完成する直前になって、突然その戦いを止めてしまいました。士師記は、この悲劇について、こまかく書き記したものです。

 そして、このことは、単にその当時そうであったということだけではなくて、こんにちも、私たち信者に対して、全く同じことが当てはまるということを忘れてはなりません。
 すなわち、初めは、主との出会いによって大きな喜びがもたらされ、すばらしい証しと栄光に満ちており、「主がすべてを備えていてくださるがゆえに、もっともっと前進しなければならない」ということを知っていたはずなのです。信者は、「主がともにいて、あらゆる約束を成就してくださること」をも、知っているはずです。
「主の約束を信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」というみことばは、信者一人一人に、大きな喜びと望みを与えてくださいます。このみことばは、多くの信者によって受け入れられ、信者たちは、家族のために熱心な祈りをささげたのですけれど、時がたつにつれて、祈りによる戦いが少しずつ衰えていき、ついには祈ることさえも全くしなくなってしまう例が少なくありません。「どうせ、駄目なのではないでしょうか」と。

 このようにして、救われた者が信仰による前進をやめてしまい、そこで留まってしまうならば、霊的な成長も、そこから先に進むことができなくなってしまうことは明らかです。
 これらの信者は、もはや何のために自分が救い出されたのか、分からなくなってしまい、与えられた目的と使命があいまいになってしまうため、証しをしたり、霊的に成長したりする力さえもなくなってしまうのです。
 そのような状態になると、おのずと光輝いていた顔から喜びが消えてしまいます。その人に起こった変化が、にじみ出てくるようになるものです。

 かつては、イエス様が主の主、すべてのすべてであったにもかかわらず、今や全く変わってしまったということは、なんと悲しむべきことでしょう。しばしば、それは、知らず知らずのうちに変化してしまうため、多くの人は無意識のうちに主の愛から離れてしまい、自分に何が起こりつつあるかということさえも、正しく理解することができず、従って、心から罪を悔い改めることもしないのです。
 けれども、何かが起こりつつあることに、気をつけなければなりません。その当時と、今とでは、何かが変わってしまったのです。非常に多くの信者が、そのような状態に陥りつつあるのではないでしょうか。


 私たちが士師記を読むときには、絶えず次のような問題意識を持つようになります。

なぜ、神の民、イスラエルの民は、信者であるにもかかわらず、信仰的に前進するこ
とをせず、そこで止まってしまったのでしょうか。

3つのことが考えられます。
1.彼らは、戦いに倦み疲れ、主のみこころが分からなくなってしまったこと。
2.彼らが、上に召してくださる主の勝利を得ようとつとめなかったこと。
3.彼らに、この世の霊が入り込んでしまったこと。

第一の答えは、次のようなものです。
1.彼らは戦いに倦み疲れ、主のみこころが分からなくなってしまったこと。
 約束の地を占領するためには、多くの戦いが必要でありました。これらの戦いは、休みなく、絶えず続けていかなければならない激しい長期戦でした。私たち信じる者の生涯も、戦いの生涯でなければなりません。
パウロは次のように言ったのです。
ガラテヤ人への手紙 6章9節
   善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取るこ
  とになります。

コリント第一の手紙 15章58節。よく読む箇所です。
   ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主の
  わざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知
  っているのですから。

このように、パウロは当時の信じる者を励ましたのです。その当時のコリントには、絶望的な雰囲気がみなぎっていたため、全力を注いで主のわざに励むことを止めてしまう人が少なくなかったので、パウロはこのような言葉を書かなければならなかったのです。
ヘブル人への手紙 6章10節
   神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒
  たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないので
  す。

 イエス様の弟子たちも、激しい戦いの中に投げ込まれたのでした。そのためイエス様は、次のように言われました。
ヨハネの福音書 14章1節
  「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

主も、ヨシュア記で次のように言われました。
ヨシュア記 1章9節。前に読みました箇所です。
  「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。 
  おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとと
  もにあるからである。」

また、イエス様は、次のように言われました。
マタイの福音書 24章13節
   しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
   
 主の民は、士師記の時代に、倦み疲れてしまい、もはや主の命令どおり戦い続けることをやめてしまいました。
 私たちも同じような状態に陥る危険性にさらされています。私たち信者の戦いは、目に見えるものに対する戦いではなく、目に見えないものに対する戦い、すなわち、霊的な戦いであることを忘れてはなりません。最も大切な戦いは、心のうちで行なわれるものなのではないでしょうか。
 パウロでさえも、この戦いから解放されることをある程度望んだようです。彼はローマの刑務所の中で書いたのです。
ピリピ人への手紙 1章21節。みなさん暗記している言葉です。
   私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

23節。
   私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキ
  リストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

パウロは、このような激しい霊的な戦いから解放され、「この世を去ってキリストとともにいること」を、確かに切に望んだのです。

 この世においては、主に救われた者は、欲すると欲せざるとを問わず、みなこの戦いの中に投げ込まれています。私たちも、信者といえども、イスラエルの民と同じように、戦いを止め、安易な妥協に陥ってしまう危険性に取り囲まれています。
 その当時、初めは、イスラエルの民も、勝利の連続を勝ち誇ることができたのですけれど、やがてその戦いが激しく続くことが分かった時、やはり、倦み疲れ、がっかりしてしまい、そのために戦い続ける勇気を失ってしまったのです。

 ご存知のように、士師記の「士師」とは、敵に対する「裁き人」という意味ですけれど、イスラエルの民にとっては、「裁き人」ではなくて、「救い主」に他ならなかったのです。
 従って、主なる神の民が、主の御前に罪を犯した時、彼らが心から罪を悔い改めるやいなや、その時は、必ず主が、「士師」すなわち「救い主」を、イスラエルにお与えになり、民を解放してくださったのです。彼らがいかに駄目になったとしても、主は見捨てることなく、常に、彼らのために救いの道を備えてくださいました。
 従って、士師記に描かれているイスラエルの民の歩みは、私たち信じる者の信仰生活を反映しているものと言えます。すなわち、ある時には勝利の歌を賛美し、またある日には、みじめな敗北感に打ちひしがれるといった具合であります。
 私たちも、同じようなことを経験するのではないでしょうか。ある時は泣き、ある時は笑い、ある時は悲しむといった具合に、喜怒哀楽の時であったと言えます。
 けれども、悲しみのどん底に落ち込んだ時も、かたくなな心、思い上がった心が、打ち砕かれるならば、その瞬間に、主が慰めと励ましとを与えてくださり、救いの道を備えてくださることを確信し、そのために感謝することができます。

 私たちの問いとは、次のようなものでした。
 「なぜ、主の民であるイスラエルが、救われた者であるにもかかわらず、信仰的に前進することをせず、そこで留まってしまったのでしょうか」。
第一の答えは、彼らは戦いに倦み疲れ、主のみこころが分からなくなってしまっただけではなく、戦う力がなくなっていたということです。

第二の答えは、次のようなものです。
2.彼らが、上に召してくださる主の勝利を、得ようとつとめなかったことです。
ピリピ人への手紙 3章14節
   キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざ
  して一心に走っているのです。

と、パウロは証ししたのです。
 イスラエルの民は、目の前のことだけしか見なかったため、主のご目的を忘れてしまったのです。彼らは、目に見えない世界、霊的な世界を見ようとしなかったのです。
 パウロは次のように書いたのです。勝利を得る秘訣についての箇所ではないでしょうか。
コリント第二の手紙 4章18節
   私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるもの
  は一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 イスラエルの民は、永遠なるものを見ずに、目の前のものに心を奪われたため、道を誤ってしまったのです。彼らは、全部占領せずに、途中で倦み疲れてしまったため、本当の使命と目的を忘れてしまいました。
 初め、主のご命令通りに勝利の戦いを続けたことは正しかったのですけれど、途中で戦いを止めたことによって、悪魔の勝利が入り込んでしまったのです。
 信じる者は、信仰的な前進を続けられないとき、主の目的を忘れてしまいます。反対に、与えられた使命と目的を忘れてしまうときには、信仰の成長と前進が止まってしまうのです。   
途中で落ち着いてしまうこと、すなわち、そのところに定住してしまうということは、何を意味しているのでしょうか。それは取りもなおさず、戦いの霊と勇気とを失うことに他なりません。兄弟姉妹のため、未信者のため、とりなしの祈りをすることが、信仰の戦いにはとりわけ大切なことです。

 士師記を見ると分かるように、主の民の敵であるペリシテ人は、イスラエルの民から、武器を略奪するという戦略を使いました。そのため、イスラエルの民は大いに悩み、戦いの霊を失ってしまったのです。ペリシテ人の戦略のため、神の民は武器を使って戦うことができなくなってしまったのです。
 私たちの敵とは、もちろん目に見えるペリシテ人ではなく、目に見えない敵、すなわち、悪魔であることを忘れてはなりません。
悪魔は、ぺリシテ人と同じように、私たちから、信仰の武器を奪い取ろうとしています。悪魔は、私たちが、主の武具に身をかため、祈りの戦いをすることができないようにと、一生懸命になっています。

 私たちの祈りの生活とは、どのようなものなのでしょうか。
 かつては、失われたたましいのために一生懸命祈ったことがありましたが、今はどうでしょうか。ともに祈る大切さを本当に知っているでしょうか。

祈りの時は、取りもなおさず、霊的な戦いの時に他なりません。私たちは、祈りの時に多くの祈りを主にささげますが、一番大切なことは、「霊的な戦いで悪魔に打ち勝ち、勝利の戦いを最後まで続けることができるように」と、祈ることなのではないでしょうか。
 そのように、私たちが真剣に祈っている未信者の中には、何ヶ月間、何年間経っても、依然として、罪を悔い改めて主を信じない人が大勢いることを知っています。戦いのために召し出されている人とは、まさにそのような人々です。もう少し分かりやすく言いますと、霊的な戦いを続けるために、私たちに与えられている人々こそ、いま述べた方々であるということです。
 ここで大切なことは、私たちが、イスラエルの民のように、戦いに倦み疲れることなく、目に見えるものによらないで、目に見えない霊的な世界で、その人たちのために祈り続けなければならないということです。
 祈りの中での戦いの霊が消えうせてしまった信者には、もはや戦う力がなく、従って、本当の喜びもありません。これこそ狡猾な悪魔の策略なのです。そして、戦う霊を失った者は、決して主のご目的を達成することはできません。

最後に、第三の答えは次のようなものです。
3.彼らに、この世の霊が入りこんでしまったことです。
この世の霊とは、何でしょうか。「居心地のよい、楽な生活をしよう」「楽しくやろう」という霊が、それに他なりません。
イスラエルの民は、「自分たちだけが、激しい戦いを永遠に続けなければならないとは、
どういうことなのか。他の民はもっと楽な生活をしているのに、自分たちだけが、なぜ、こんなに苦しい生活をしなければならないのか」とつぶやいたのです。
信じる者が「楽な生活をしたい」と思うときは、必ず悪魔が心の中に入り込んで支配し
てしまうのです。イスラエルの民が、敵と戦うことを止めた時、この世的にはお互いに非常に親しくなることができました。

 この世と戦わない信者は、悪魔の誘惑に陥る危険性を持っています。敵と戦わなくなってしまった信者は、もはや主のしもべではありません。敵と戦う備えのない者は、安易な妥協に陥ってしまうのです。「この世と適当にうまくやっていこう」と思ったり、「居心地のよい、楽な生活をしよう」としたりする者は、備えられた主の遺産を受け継ぐことができません。
 イスラエルの民が、戦い続けることを止めた時に、彼らは異邦人である敵と親しくなり、お互いに結婚し合うことが平気になってしまい、主の前に罪を犯してしまったのです。
 このように堕落したときに、悪魔は、イスラエルの民に対すると同じように、私たちに対しても、「今こそ誘惑しよう」と、隙を伺っているのです。


今まで話してきたようなこと、すなわち、イスラエルの民の失敗と、信じる者の欠点だけで、今日の話を終わらなければならないとしたら、全く悲観的なことしか言えないことになってしまいます。

 士師記は、「主なる神は、信じる者を決して捨てない」と、はっきり言っています。私たち信者が、主の前に、心から罪を悔い改めるならば、主は私たちを愛し、生き生きとした交わりを回復してくださるに違いありません。
 ですから、士師記の中のデボラ、あるいはギデオン、あるいはサムソンなどの悔い改めを読んで、主に感謝できるのです。これらの人々を通して、主は、イスラエルの民を、救いの道に至らせてくださいました。結局、デボラを通して、ギデオンを通して、サムソンを通してでさえも、主はイスラエルの民を救うことがおできになったのです。

 私たち自身の過去を振り返ってみると、私たちは、果てしなく続く戦いに、倦み疲れ、祈ることを止めたり、あるいはイスラエルの民と同じように、「楽な生活をしよう」と思ったりしたことでしょう。
ギデオン、デボラ、サムソンと、多くの人々は、主の器として、イスラエルのために用いられました。
その当時、すばらしい人、すなわち、ルツという女性の信仰者を見出すことができます。彼女は士師記の時代に生きた人でした。彼女は、初めはイスラエルの民ではなく、異邦人に属していました。主なる神を知らないで、偶像を礼拝していた者でした。けれど、彼女は、主に出会ってからは、主を第一にするようになったのです。彼女は決して楽な生活を望まず、ただ、主のそばにいることだけを乞い願ったのです。彼女は、明日のことを思い煩わず、すべてを主の御手にゆだねたのです。その結果として、奇跡を経験しました。
 あるとき、彼女は落穂を拾うために出かけたのです。けれど、そこで、麦だけでなく、一人の男と出会うことができたのです。ルツは、彼と結婚することになったのですけれども、信仰を通して、本当に主に仕えるしもべとなり、イエス様の子孫に加えられるという光栄にあずかることができたのです。
 主にすべてをゆだね、明け渡す冒険をすることができた者だけが、ルツのように、祝福された生涯を送ることができます。

 私たちの前に、「戦い」が横たわっています。私たちも、「戦い」に倦み疲れることがあるでしょう。私たちも、時には落胆したり失望したりすることがあるでしょう。私たちも、イスラエルの民と同じように、なすべきことが完成する前に、どこかに定住してしまうかもしれません。このような可能性は、信者一人一人の生活の中に含まれており、そのような状態に留まってしまうことは、悲劇であると言えましょう。

主は、決して私たちを捨てるようなことはなさらず、私たちは絶望的になることはないということを、忘れてはなりません。私たちが「砕かれた心」を持って、主のもとに立ち返るならば、主は必ず、力と喜びを与えてくださいます。

主は、私たちが戦いを最後まで続け、約束の地を完全に占領することを可能にしてくださる唯一のお方です。

主は、ヨシュアに対するのと同じように、私たちにも、呼びかけておられます。
「立って、行け。あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがあなたがたに与えている。わたしは、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ」と。

士師記 18章9節。最後にこの箇所を読んで終わります。
   そこで、彼らは言った。「さあ、彼らのところへ攻め上ろう。私たちはその土地を見
  たが、実に、すばらしい。あなたがたはためらっている。ぐずぐずせずに進んで行っ
  て、あの地を占領しよう。」

                                      了



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集