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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(2)
   
2004.10.5(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
エステル記 4章14節
「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。」

エゼキエル書 3章16節から18節

 七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、 わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、 もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れ、 生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

箴言 11章30節

 正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。

箴言 24章11節から12節

 捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。
もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか


昨日、血液検査に行きましたが、前よりも更に良くなっているそうです。血小板だけが少し前よりも少なくなりましたけれど、白血球は前回3700でした。昨日は、6600だったのです。どうしてそうなったのか分からないのですが。ですから、毎週ではなくて月一回だけ行くのでよいそうです。ですから、次は11月1日に、血液検査に行かなくてはいけないということです。そのことは、どうでもいいことですけれど、皆さんの祈りの答えではないでしょうか。

先週の火曜日、いろいろな問いについていっしょに考えました。
・主イエス様は何を欲しておられるのでしょうか。
・主のみこころとはいったいどういうようなものなのでしょうか。
・イエス様はいったい何を望んでおられるのでしょうか。
という問いでした。この問いに対するはっきりとした答えは、主は「ひとりも滅びることがないように」願っておられます。
イエス様は次のように言われました。よく引用される箇所ですけれど、
ヨハネの福音書 6章40節です。

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

「子を見て」、つまり「わたしを見て」ということです。
ですから主の願いは、人間が救われることです。主は、人間を救うためにご自分のもっとも愛する者、すなわち主イエス様をお与えになりました。私たちの心の願いは、やはり人を救うことなのでしょうか。主イエス様と一緒に人のたましいを救う者になりたいのでしょうか。
救われた者として、救いの奉仕をしない者は必ず霊的に損なわれるのであり、どうでもよいのだというような者になってしまいます。イエス様は、ペテロに向かって、「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われましたが、このみことばはもちろん、私たちにも当てはまることばです。福音を宣べ伝えること、すなわち、主イエス様を紹介することだけではなく、たましいを獲得することこそが、あらゆる信じる者に主からいただいている使命です。すべての兄弟姉妹は、このもっとも大切なご奉仕のために召し出されたのです。けれども、イエス様のためにたましいを獲得したいというこの上もない情熱を、本当に知っている兄弟姉妹はきわめて少ないのではないでしょうか。

多くの信者たちは、自分の仲間や近所の人たちのたましいの救いに対してあまり責任を感じていません。今、司会の兄弟がお読みになりました、エゼキエル書3章18節にあるように、「わたしは彼の血の責任をあなたに問う」というみことばは、私たちに大変な責任を、驚くほど冷静に、また鮮明に記しています。そして主イエス様に従っている者は、取りも直さず、イエス様から人をすなどる者として召された人を意味しています。私たちはこの大切な事実を確信し、自覚しているのでしょうか。

このたましいを獲得するという目的のためには、いろいろなものがどうしても必要です。例えば、この間話したように、
・主イエス様との祈りの結びつきが必要です。絶えざる主イエス様との祈りの結びつきがどうしても必要です。祈ることなしにはだれも導かれません。
・また、主のみことばである聖書の言わんとしていることも知る必要があります。救われるためには聖書の知識がなくても、悔い改めれば主は恵んでくださる。受け入れてくださる。けれどもイエス様を知るために、ほかの人を導くために、「みことばは何と言っているか」を、どうしても知る必要があります。なぜならば、たましいを救う者は聖書を用いなければならないからです。みことばだけが、たましいを救う力を持っているからです。聖書を用いようとする人は、聖書を知らなければなりません。聖書を応用することができなければなりません。
・そして、主のみことばである聖書が真実であるということを、絶対的に確信していることが必要です。主のみことばに対して、少しの疑い、少しの不安でも持っているなら、結果は不確かなものとなり失敗します。なぜなら、疑い不安は、みことばの働きを無力にするからです。
・また決して絶望することのない信仰の忍耐もどうしても必要です。イエス様との生き生きとした結びつきを持って生活している兄弟姉妹は、たましいの滅びゆく人々にイエス様への道を指し示す人にほかなりません。私たちは、日頃多くの滅びゆく人々にイエス様への道を指し示している一人なのでしょうか。


先週に引き続いて、「私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるか」ということについて考えたいと思います。
私たちは、毎日毎日、無関心で冷淡な人々に取り囲まれていますから、いかにそのような人々に接するべきかという質問をもうけたいと思います。

ですから今日の題名は、『無関心で冷淡な人々にいかに接するべきか』というテーマです。六つのことについて考えたいと思います。
1.そのような人が主なる神の前には罪人であるということを、教えてあげなさい。
2.その人に何が罪であるかを、示しなさい。
3.罪の結果は非常に恐ろしいということを、その人に示してあげなさい。
4.その人に不信仰の恐ろしさを、示してあげなさい。
5.その人に主のすばらしい愛を指し示してください。
6.恵みとは何かを、まだ信じていないその人に教えてあげなさい。

私たちはいかにして主イエス様のために、たましいを獲得することができるのでしょうか。一つのことはもちろんはっきり言えます。私たちは自分でたましいを救うことはできないということです。ですから、聖霊によって主イエス様の支配を私たちのうちに受け入れましょう。聖霊によればすべてのことが可能です。私たちのうちに住まわれる主イエス様だけが、たましいを救うことがおできになるのです。主イエス様の御用を務めるために、「私たちがここにおります。私をお用いになってください。私を通して人のたましいを救ってください」と言いたいものです。

無関心で冷淡な人々にいかに接するべきなのでしょうか。
1.その人が主なる神の前には罪人であるということを、教えてあげなさい。
伝道者の書 7章20節に、次のような短いことばですけれど記されています。

 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。

結局、「みな罪人である」と、神のみことばである聖書ははっきり言っているのです。
ローマ人への手紙 3章23節を見ると、まったく同じ事実について書かれています。

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。

「すべて」とは、すべてです。すべての人とは、泥棒、殺人者ともども、良い行ないをしている人も、これらすべてを意味します。このすべての人が、主なる神の栄光を受けられなくなっていると書いてあります。どうしてでしょうか。
ローマ人への手紙 5章の18節を見ると、次のようにあります。

 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

この一人の人の罪過とは、初めての人であるアダムの堕罪だったのです。ですから全人類はアダムにおいて罪を犯したのです。他人、すなわちアダムの犯した罪に責任はないとか、一人の人間の罪によって全人類が責任を負うとするのは神は正しくないとかいう議論は、可能です。このような議論に対する必要な答えは次の箇所でしょう。
イザヤ書 45章9節

 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように 自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

無関心で冷淡な人にいかに接するべきなのでしょうか。その人が主なる神の前には罪人であるという事実を、教えるべきです。


2.その人に何が罪であるかを示してください。罪は不法の状態です。
ヨハネの手紙・第一 3章4節に、次のように書かれています。

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。

罪とは、律法に逆らうことなのです。すべての人間に対する要求として、主の戒めは次のように言っています。
マタイの福音書 22章37節。これもよく知られている箇所です。

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」

主は何を望んでおられるか、この箇所を見ると、「主なる神を愛せよ。心を尽くして」と。つまり、
まず、あなたが十分意識して。
次に、精神を尽くして。すなわち、あなたの全感覚能力をもって。
それから、思いを尽くして。
そして、あなたの全思考力及び全意識力をもって。

主なる神を愛するとは、人が自分を完全に主にささげることを意味します。罪人にこの主なる神の掟を満たしているか尋ねてください。そしてこの掟を守っていないから罪人であるということを、その人に示しなさい。主なる神は生きておられるのです。
ヨハネの福音書 5章42節。

 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。

マタイの福音書 7章23節。非常に厳しいみことばが書かれています。

 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

無関心で冷淡な人が不法の者として闇を愛しているのだということを、教えてあげなさい。彼らの世界は快楽の世界であることを、教えてあげなさい。
ヨハネ手紙・第一 2章15節から17節を見ると、次のように書かれています。
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

この箇所を見るとはっきり言われています。すべて世にあるもの、闇にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、貪欲。持ち物の誇り。誘惑、不確かな幻をもって満足すること、そして、主なる神のご意思に身を固めないとき。これらは、父から出たものではなく、世から出たものです。「世と世の欲は過ぎ去る。けれども主の御旨を行なう者は永遠にながらえる」と、約束されています。

罪とは、完全な道徳的堕落の状態です。生まれ変わっていない人がこの事実に反抗し、自分の正義感、親切などの道徳的価値を云々するでしょう。けれど人間相互の間ではそのような人間的尺度は通用するが、主なる神には何の価値もないということを教えてあげなさい。
ローマ人への手紙 3章12節を見ると、次のように書かれています。

 すべての人が迷い出て、 みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。

イザヤも同じ事実について書いたのです。イザヤ書の64章。これこそ人を獲得するために一番大切です。どういうことばを使うべきかと知らなくてはいけません。
イザヤ書 64章6節

 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

ここにも、「みな」ということばが二回も出て来ます。結局、例外なくということなのです。
その人のよい行ないさえも、主なる神の法にかなっていないから何の価値もないということを、無関心で冷淡な人に教えてあげなさい。

創世記の8章にもすでに、同じ事実について書き記されています。
創世記 8章21節

 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。

「人」とは、みんなのことを意味しているのです。
エレミヤ書 17章9節も、同じ事実について書かれています。

 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

「すべての人間の心は何よりも陰険で、それは直るものではない」とあります。イエス様は、この事実をはっきり宣べ伝えられたのです。
マタイの福音書 15章18節から20節

 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。

結局、心が問題なのです。心から出て来るものについて、イエス様はここで言われました。よこしまな滅びの心からは悪いことと良いこととが一緒に出ることはないということを、無関心で冷淡な人に教えてあげなさい。ヤコブは次のように言ったのです。
ヤコブの手紙 3章11節

 泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

もちろん、あり得ません。完全な道徳的堕落としての罪は、更に次のような事がらのうちにも見られます。事の良し悪しに関わらず、また、良いことをする者、泥棒する者に関わらず、とにかく生まれ変わっていない人は、主の賜物を受け入れること、主なる神の権威に従うことができないということです。この事実について、みことばははっきり言っています。
コリント人への手紙・第一 2章14節 

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

また、生まれ変わっていない人に、聖書を理解しているかどうかを尋ねなさい。それからその人の主なる神の真理に対する無理解や非認識が、その人の完全な道徳的堕落を証明していることを示してあげなさい。もし、盲人が見ることができないなら、それは盲人であるという証拠になります。それと同じように、まだ生まれ変わっていない人が主の御霊の賜物をいただいていないなら、その人は完全に道徳的に堕落しているという証拠になります。ですから、あらゆる罪人に対して、次のように言っています。
エペソ人への手紙 4章18節

 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

マタイの福音書 13章の13節。事実について次のように書き記されています。

 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

まだ生まれ変わっていない人の思いは、罪によって曇らされているのです。その人は主の戒めに従うことができません。けれど私たちは、主なる神を心から愛すべきです。
ローマ人への手紙 8章7節で、パウロはまた次のように書き記したのです。

 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

いばらからぶどうを、あざみからいちじくを集めることができないのと同様に、まだ生まれ変わっていない者は、主をお喜ばせすることはできません。
マタイの福音書 7章18節、19節

 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。


3.罪の結果は非常に恐ろしいということを、その人に示してあげなさい。
ローマ人への手紙 6章23節

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

罪から来る報酬は死です。罪の報いによる死は三重の意味をもっています。
すなわち、
@肉体の死。
A精神的な死。
B永遠の死。
です。
@ 肉体の死。
信じる者と未信者を問わず、この肉体の死に会わなければなりません。けれども救われた人々は、主イエス様の約束を信じています。
ヨハネの福音書 11章25節

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

死は終わりではない。もし救われた人々が死んだとしても、その人はイエス様によって恵みをいただいたから、生きているのです。

A 精神的な死。
精神的な死とは何なのでしょうか。パウロはエペソの信者たちが信仰に入る前の状態について次のように書いたのです。
エペソ人への手紙 2章1節

 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者でした。

聖書ははっきり言っています。すなわち、まだ生まれ変わっていない人は、罪のうちに死んでいるのであり、生きる屍のようなものです。生まれながらの人は、主なる神の御霊の賜物を受け入れず、理解していません。

B 永遠の死。
この永遠の死について、黙示録に次のように書かれています。
ヨハネの黙示録 20章14節、15節

 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

とあります。永遠の死は、永遠の滅亡です。


4.その人に不信仰の恐ろしさを、示してあげなさい。
ヨハネの福音書 3章18節、19節

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

不信仰は罪です。
ヨハネの福音書 16章8節、9節

 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

主なる神のひとり子であられる主イエス様を、信じない、信じたくない者は、罪の中に死なねばなりません。
ヨハネの福音書 8章24節

 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。

不信仰者として、罪のうちに死んでいる者は、裁判官としての主イエス様の前に立たなければなりません。
ヨハネの福音書 5章22節

 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

結局、悔い改めたくない人々、頭を下げたくない人々はさばかれます。救い主なるイエス様はさばき主になるとあります。不信仰者は、自分自身の考えで聖書を退けているのだと思い込んでいますけれど、実際はその不信仰の者の論拠や異論は、悪魔がそうさせているのです。
エペソ人への手紙 2章2節で、パウロは彼らについて次のように書いたのです。

 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、 空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

とあります。
コリント人への手紙・第二 4章3節、4節

 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

悪魔は、不信仰者、まだ生まれ変わっていない者の中に働き、徹底的力を持っています。ですから不信仰者、生まれながらの者は、堅く縛りつけられた囚人と同じように、悪魔の虜となっています。ここで悪魔ははっきり、「この世の神」とあります。不信仰の者は悪魔の命じるままに動かねばなりません。

使徒行伝の26章に、パウロに与えられた使命について書かれています。
使徒の働き 26章18節

『それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

とあります。悪魔の支配から自分の身を救わず、不信仰のままでいる者は、最後にはその悪魔と一緒に恐ろしい滅びの運命に陥らなければなりません。
ヨハネの黙示録 20章10節に、この恐ろしい運命について次のように書かれています。

 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

ここで、「永遠に」と書いています。永遠は永遠です。
黙示録 21章8節

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、 不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

黙示録だけではなく、パウロも、末の世について、将来のことについて、同じ事実について、例えば次のように書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第二 1章7節から9節

 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

ここにも、永遠の滅びについて書かれています。もう一ヶ所。
ヨハネの黙示録 20章11節から15節

 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

とあります。この箇所を見ると、ヘブル書を書いた者のことばがよく分かります。
ヘブル人への手紙 10章31節

 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。


5.その人の滅びは自分で選んだから起こるのだということを、教えてあげなさい。
ヨハネの福音書 3章17節
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

主の目からご覧になると、救われていない人間はもちろんいません。イエス様はみな救われたからです。けれども、もし人が、提供されている罪の赦しを意識して拒めばおしまいです。主は強制なさらないからです。
テモテへの手紙・第一 2章4節

 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

いかに望んでおられるか、想像できません。
ペテロの手紙・第二 3章9節

 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

聖書ははっきり言っています。すなわち、罪人が滅びに向かって行くのは、自分の意思で滅びてゆくのだと。
エレミヤ書 5章3節

 主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。

悔い改めたくなければ、おしまいです。
詩篇 28篇5節

 彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。

とあります。
私たちはいかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるのでしょうか。無関心で、冷淡な人々にいかにして接するべきなのでしょうか。
1.その人が主の前に罪人であることを教えるべきです。
2.その人の何が罪であるかも知らせるべきです。
3.罪の結果は非常に恐ろしいということをその人に示してあげなさい。
4.その人に不信仰の恐ろしさを話すべきです。


5.信じない者に、主なる神の考えられないほどの素晴らしい愛を指し示しなさい。
主の愛を人間の愛に比べることは出来ません。なぜかと言うと、主の目からご覧になれば、人間は主なる神の愛に価するものを一つも持っていないからです。主は、人間の堕落した罪深い状態にも関わらず、人間を愛しておいでになります。この、実に大いなる愛は、聖書の次の箇所に書き記されています。
ヨハネの手紙・第一 4章9節、10節。初代教会のあかしでもあります。

 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ローマ人への手紙 5章8節

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、 キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙 8章32節

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ヨハネの福音書 3章16節

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イザヤは、預言として救い主なるイエス様について次のように書いたのです。
イザヤ書 53章5節

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

全部イエス様のことです。今の箇所を通して、一つの事がらがはっきりと示されています。それは、このように素晴らしい主なる神の愛と慈しみが、罪人を悔い改めに導こうとしていることです。

しかしながら、審判の日には、この主なる神の愛は怒りに変わるということも、明らかです。
ローマ人への手紙 2章4節、5節を見ると、次のように書かれています。

 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。


6.恵みとは何かを、まだ信じていないその人に教えてあげてください。
主なる神は、罪人に恵みを与える義務は持っておいでになりません。なぜなら恵みとは、主なる神の側から罪人に対してなされる義務の満たしではないのです。恵みはいつも、罪の赦しによってのみ成立します。恵みは権利や要求の反対です。ですから手柄の反対でもあります。恵みのあるところには、その恵みを受ける人は恵みを求める権利を持っておらず、その恵みなくしては、刑罰を受けなければならないことを、私たちは知るのです。
ローマ人への手紙 3章24節

 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

「値なしに義と認められる」。よしとされる。永久的に受け入れられるのです。
ローマ人への手紙 11章6節

 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に次のように書き記したのです。
エペソ人への手紙 2章8節、9節

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

その前の1章にも、同じ事実について書かれています。
エペソ人への手紙 1章の5節から7節

 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

ヘブル書の著者も、同じ事実について書き記したのです。
ヘブル人への手紙 2章の9節、10節

 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

主なる神の恵みは、人の罪の大きさ、深さに関係のないものです。いくら罪が深くても、主の恵みは豊かにあります。
すでに二千六百年前に、イザヤは書いたのです。
イザヤ書 1章18節

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

ローマ人への手紙 5章20節

 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

とあります。主なる神の義という尊い恵みある賜物が神の恵みです。おもにローマ書の中で、この主の恵みがほめたたえられています。もう一ヶ所見てみましょうか。
ローマ人への手紙 3章24節から26節

 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

パウロも、コリントにいる人々に書いたのです。
コリント人への手紙・第二 5章21節

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

主なる神の恵みは、主イエス様の罪を清める血を信じて、すべての罪人を義とするところにその本質があります。この原因は、罪の赦しと主の代償を含んでいるだけでなく、信者たちに対する主の永遠に変わらない真理でもあるのです。
すなわち、あなたは今までに罪を犯したことがない人のように、今、私たちの前に立っています。罪ののろいを受けた人は、主イエス様の血の清めの力を信じることによって、滅びの罪の重荷から解放されるばかりではなくて、一番大きな賜物、すなわち、主なる神ご自身の義をいただくのです。これが主の恵みです。


私たちは、いかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるのでしょうか。一つのことははっきりしています。私たちは自分でたましいを救うことはできません。ですから、御霊によってイエス様のご支配を私たちのうちに受け入れましょう。御霊によれば、すべてのことが可能です。私たちのうちにお住みになるイエス様だけが、たましいを救うことがおできになるのです。

イエス様のご用を務めるために、「私はここにおります。私をお用いになってください。私を通して人のたましいを救ってください」と、言いたいものではないでしょうか。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集