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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


御子の血による贖い
   
2005.9.13(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
エペソ人への手紙 1章7節
 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサイ人への手紙 1章14節

 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

ヘブル人への手紙 9章14節

 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヘブル人への手紙 9章22節

 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

黙示録 1章5節

 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、


今読んでいただきました箇所は、聖書の中心です。ある兄弟が次のように書いたことがあります。「私は、なかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませている弱い者です」と。
言うまでもなく、そのような気持ちを持つことはある意味で大切ですけれど、さらに前進しなければなりません。 即ち、感謝にあふれ、心から主を崇拝せざるを得ない兄弟姉妹を、
主は求めておられます。イエス様を信じる者は多いかも知れませんが、まことの礼拝者は少ないのではないでしょうか。

普通の教会の礼拝は、牧師の説教こそが中心です。私たちは、毎日曜日、聖書の話だけでなく礼拝もあります。でも、それは本当の礼拝なのでしょうか。礼拝とは確かに祈り会ではありません。日曜日の礼拝のとき、自分のため、ほかの人のために祈ることは適切ではありません。イエス様の十字架、イエス様の流された血潮こそが中心であるべきです。
 なぜなら、イエス様の身代わりの死について考えると、確かに小さくなり、悔い改めに導かれ、そしてまごころから賛美することができ、主を崇拝せざるを得ません。神の敵である悪魔は悪魔への礼拝を求めています。イエス様にさえ礼拝を求めたのです。ちょっと信じられないことです。
マタイの福音書 4章8節から11節

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

もちろんこの悪魔は、人間を攻撃して人間の礼拝を求めています。まことの礼拝者にな
るために、私たちは先ず、自分の罪の恐ろしさ、それからイエス様の流された血潮の尊さ
を新たに知るべきではないでしょうか。
 ですから、今日もまた、この大切な点について少しだけ一緒に考えてみたいと思います。
今、歌った賛美の中で、十字架の血潮で罪科を洗われ、滅びゆくこの身が救われた喜びを
歌いました。まごころからそう思えば、これこそが、まことの礼拝の一つの現われなのではないでしょうか。
 
 昔、集まる人たちが比較的少なかった吉祥寺集会所でも、またいろいろな家庭集会でも、私たちは16ミリの映画を上映したのです。(観たかったらまだありますが)若者のためにまた使うことができるなら、非常に良いと思います。だいたい科学映画です。ある映画の題名は『いのちの赤い川』という映画でした。その中で、血について多くの説明がされていたのです。まず合衆国大統領のジョージ・ワシントンについてです。彼は67歳で亡くなりました。考えてみると、彼は死ななくても良かったはずです。彼はのどが痛いと言って、急に亡くなりました。それは100%医者のミスでした。
 彼は医者によって殺された、と言っても言い過ぎではないでしょう。健康な人の体でもこのような手当を受けたら必ず死んでしまうというようなことだったのです。医者は病気を治すために、大統領から何リットルも血を抜いてしまったのです。今ではあり得ないことです。でも、当時はこのような治療が平気で行なわれ、その後も長い間続けられていたのです。今日、そのような手当は殺人とみなされるでしょう。けれど、彼の時代にも許されないことでした。なぜなら大統領が亡くなったとき、ベッドのそばには神のみことばである聖書が置かれていました。聖書の中にはっきり書かれています。
レビ記 17章11節

 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

14節

 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。

と。これは別に限定された範囲のことばではありません。聖書は、おそらく血液専門の教科書を除いて、ほかのどんな本よりも、血とその大切さについて多くを語っています。
ワシントンの時代には血液の知識はなかったかもしれませんが、聖書を信じることが出来たはずです。無知と迷信のために、そして何千年も伝えられてきた単純明快な神のみこ
とばを少しも信じようとしなかったために、犠牲となったいのちの数は数えられないほどです。
 けれども、肉体の死よりも、霊魂の死のほうがもっと悲劇的で救いようのないものです。
即ち、私たちのために流された主イエス様の血です。確かに、多くの人には信じ難いこと
でしょうけれど本当なのです。血は、聖書の主題そのものです。聖書には始めから終わり
まで、何百回も血のことが述べられています。即ち、
ヘブル人への手紙 9章22節後半

 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
 
 聖書の中心なるみことばです。血を流すことなしに罪の赦しはあり得ません。それから、
ヨハネの手紙・第一 1章7節
 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「罪の報いは死である」と聖書ははっきりと言っています。もちろん、ここで問題になることは、これは単に宗教的な迷信か、科学的な事実かということです。もし事実としたら、それは、全宇宙で最も大切な事実であると言えましょう。私たちの永遠の運命はその事実を受け入れるか拒むかです。
 
 神のみことばである聖書は、いうまでもなく、私たちに理論や単なる教えを伝えようと
しているのではなく、事実そのものを伝えようとしています。聖書は私たちを納得させるために書かれたものではありません。事実を伝えているだけです。
 私たちがその事実を信じたら元気になります。どのような状況に置かれていても前向き
の生活ができるようになります。どうして信じることができるか。もちろん神のみことばだからです。わかったからではありません。いい気持ちになったからでもありません。人に納得させられたからでもなく、神のみことばだからです。

ですから、「御子の血」ということばこそが、聖書の中心テーマです。よく引用される
素晴らしい箇所です。
ペテロの手紙・第一 1章18、19節

 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

救われたのは、贖い出されたのは、キリストの血によったのです。イエス様の血は尊い
ものでありますから、流された血は大いに愛されていることを意味しています。考えられないほど愛されている証拠そのものです。イエス様の流された血とは、単なる教えではなく、唯一の救いの道なのです。ですからヨハネは、
ヨハネの手紙・第一 1章7節

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 これこそが、良いニュースなのではないでしょうか。「御子の血はすべての罪から私たち
を清める」。御子の血こそが、聖書の中心テーマです。
 
(コーランを読むと、)イスラム教徒たちは、神は子どもを持っていないと言います。けれど、御子がおられなければ救いの道はありません。なぜならイエス様は、「わたしは道そのもの、真理そのものです。わたしを通してでなければ、誰も父のところに行くことができない」とおっしゃいました。
 統一教会の原理講論の中に、「血」ということばは一回も出てきません。統一教会の提供している救いとは偽物です。なぜなら、人間の代わりに罪のない者が死ななければ、罪の
赦しはあり得ないのです。
 
 私たちは聖書の事実を、頭の中に蓄えている知識として知るだけでは、十分ではありま
せん。生活の中にどうしてもその知識が生かされていかなければ、日々を生活することが
できません。それほどに、体験的に知らなければならないのです。
 

 主なる神のご計画とはいったい何なのでしょうか。イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 6章40節 

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

 「子を見て」とは、「わたしを見て」です。永遠のいのちを持つこととは、良い行ないをして一生懸命努力することではありません。「信じる者」は、わかる者ではなく、「信じる者は永遠のいのちを持つ」のです。
けれど、みこころは、それだけではありません。パウロは、すでに救われた人々に、主の恵みにあずかる人々に、次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 4章19節

 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

パウロは、苦しい、つらいと思ったでしょう。しかし、救われるだけで十分ではないのです。「あなたがたのうちにキリストが形造られ」なければならないからです。
主のご目的は、人間がみな救われて主イエス様に似た者となること、主のみ姿に似せら
れていくことなのです。
 
 ひとりひとりは、自分の強い点、また自分の弱い点を知っています。自分の一番弱い点は、誰も知っているのではないでしょうか。そして私たちはイエス様のみこころにかなう勝利の生活を願い、そのために歩んできましたが、結末は敗北に終わったことが多かったのかもかもしれません。
いったいどうしてでしょうか。まことの土台を持っていなかったせいなのでしょうか。
聖書の知識を持っていなかったためでしょうか。

確かに、人間は多くの悩みや苦しみがありますが、それに対して主の備えは、ご自分の
ひとり子であられるイエス様です。イエス様こそ唯一の答えです。それはすでに知っていると言うかもしれません。けれど、もしそれを本当の意味で知っているなら、なぜ自分の力でまだ頑張っているのでしょうか。自分の力でなぜ勝利の生活を送ろうと努力するのでしょうか。イエス様だけが、勝利の生活を送らせることがおできになるのです。パウロは、自分の生活において、勝ち得て余りあると証ししたのです。
ローマ人への手紙 8章37節

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 と、告白したのです。

パウロは勝利の秘密を握っていました。勝利の秘訣を知っていたのです。信じる者にと
って、最も大切な箇所の一つではないでしょうか。
ガラテヤ人への手紙 2章20節

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

かつてのサウロのことを考えれば、奇跡そのものです。イエス様を信じる者を迫害した
彼は変わりました。「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」と言うよう
になったのです。
 
 多くの人たちは、悩んで、そして考えています。「主はどうして私を、このようなお取り
扱いの中にお入れになったのでしょうか。私にはどうしてこんなに悩みがあり、苦しみが
あるのでしょうか」と。
それは、自分自身が死んでなくなり、自分のうちに、イエス様が生きておられるという
まことの知識に達するように、主ご自身が導いておられるからなのです。

 私たちは、確かにいろいろな悩みを持っていますが、主はそのような質問に対してお答えになるとき、イエス様ご自身を私たちにお示しになります。 
 聖書は、人間の過ち、我がまま、罪について多くのことを言っているのです。それだけではなく、イエス様の流された血の力、尊さについても、多くのことを言っています。

パウロは、おもにローマ書の中で、その両方について、たくさん言っているのです。
ローマ人への手紙 3章23節から26節

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

ローマ人への手紙 5章8、9節

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

私たちは、キリストの血によって、良しとされた、義と認められた、永久的に受け入れられたと初代教会の人は確信して証ししたのです。

 聖書の中では、確かに、罪について多くのことを言っています。簡単にまとめますと、罪の働きは3つです。
1.主なる神に対して、隔ての壁ができたということ。
2.自分に対して、良心の呵責が重荷となったということ。
3.神の敵である悪魔に、訴えの根拠になってしまったということ。
 
1.まず、主なる神に対して、隔ての壁ができたのです。
最初の人であるアダムは、主なる神に対して不従順であったために、主なる神と人間と
の間に隔たりができてしまったのです。即ち、不義が、罪が、神と人間との間を隔てたと
聖書は言っています。
イザヤ書 59章2節

 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

 とあります。したがって主なる神は、「全人類はことごとく罪の下にある」と言われます。

ローマ書にはっきり書き記されています。パウロによって書かれた手紙ですが、旧約聖書から引用された箇所が非常に多いのです。この箇所もそうなのです。
ローマ人への手紙 3章9節から12節

 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

罪によって、主なる神に対して隔ての壁ができてしまいました。それだけではありません。


2.自分に対して、良心の呵責が重荷となってしまったのです。
罪を犯し、主なる神との間に隔てができてしまったので、人間は良心の呵責が生じまし
た。主なる神、聖霊なる神が人の心に働くとき、全人類はことごとく罪の下にあることを
悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。放蕩息子の告白は次のようなものでした。
ルカの福音書 15章18節

 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」

罪の働きとは、今話しましたように、
主なる神に対して隔ての壁ができて、自分に対して良心の呵責が重荷になったのです。


3.悪魔に対して、訴えの根拠にもなってしまったのです。
私たちは良心の呵責を持っていますが、悪魔はそれにつけこみ、人間に、「おまえは罪
を犯した。だめな罪人だ」と言います。悪魔は、訴える者として黙示録に書かれています。
黙示録 12章10節

 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

これは将来に対する預言のことばです。

前に言いましたように、主なる神も、人間も、悪魔も、罪の事実を認めています。ですから三つの事がら、即ち主なる神に対する罪。そして良心の呵責の重荷。更に悪魔の訴えを解決する方法。これが必要であり、大切なのです。
 
 けれど、いったいどうしたらこの問題を解決することができるのでしょうか。
先に言いましたように、人間のあらゆる困難、あらゆる苦しみに対する主のお答えは、いつも一つ、即ちご自身の御子である主イエス様です。イエス様のなされた救いのみわざ、
イエス様の流された血潮です。

 この三つの問題も、すでにイエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって、解決
されたのです。即ち、
・主なる神と人間との間を隔てている罪という壁は、イエス様の血によってすでに取り払われたのです。主なる神と人間との交わりができるようになりました。
・イエス様の十字架の血潮を良く知るなら、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。
・また、私たちが血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは、効き目が無くなります。
 
 このように、イエス様が十字架で流された血の力は無限に価値あるものです。主なる神
に対し、私たちの良心の呵責に対し、悪魔の訴えに対し、十二分の効果を持っています。
私たちが霊的に成長したいと願うならば、どうしても、イエス様の血潮の限りない力を知る必要があります。イエス様が十字架におかかりになり、その時流された血潮の絶大な価値を知らなければなりません。この知識なしに、イエス様にお従いすることはできないからです。ですから、この三つのことを聖書は強調しているのです。

イエス様の流された血の働きとは、いったいどういうことなのでしょうか。
1.壁の廃棄。主なる神との交わりが可能となった。
2.罪の赦しが提供されている。結果として、喜びと平安に満たされる。
3.十字架の犠牲こそが悪魔に対する勝利を意味する。

父なる神ご自身のために血が流されたという事実について、聖書は多くのことを言っています。確かに、私たちの贖いのために流されたに違いありません。私たちの罪が赦されて主なる神に近づくために流されたのは誰でも信じていますし、喜ぶことが出来ます。私たちが主なる神に、裁かれないようになるために、どうしても罪の赦しと贖いが必要です。

罪の赦しは、宗教、あるいは教え、道徳的な行ないによっては勝利できません。ただ、イエス様の流された血の事実によってのみ、罪の赦しがなされます。けれど、イエス様の血は、まず、父なる神のために流されたのであり、人間のためではありません。

私たちがイエス様の血の価値を知ろうとするなら、私たちは、先ず、父なる神ご自身が
イエス様の血をどのように考えておられるかを知らなければならないのです。私たちが、
主なる神がイエス様の血をどのように考えておられるかを理解していないなら、イエス様
の血は、私たちにとってどんな意味があるかもわからないはずです。御霊が、父なる神が
御子の血をどのようにお思いになっておられるかを私たちに教えてくださる時、私たちは
はじめて、イエス様の血の素晴らしさを、尊さを知ることができます。

 旧約聖書を読むと「贖いの血」が100回以上出てきます。そして、いずれも、贖いの
血は人間のためであるよりも、主なる神のためであるとはっきり書き記されています。
一番よく知られている箇所を一箇所見てみましょうか。
出エジプト記 12章12節から14節

「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」

エジプトを出るにあたり、イスラエルの民はみな、傷のない子羊を殺し、その血を家の
柱と鴨居に塗らなければならなかったのです。主なる神は、その血を見て、「わたしはその
家にわざわいを下さずその家を通り過ぎる」と言われたのです。イスラエルの民は、入り
口の見える所に血を塗ったということは、主なる神がその血をご覧になれるようにしたか
ったからです。人々は、家の中で羊の肉を食べたのです。人々にはその血は見えなかった
のです。
この出エジプト記で、イスラエルの人々が殺した傷もしみもない子羊とは、いうまでも
なく主イエス様の雛形(ひながた)です。主なる神は、極みまで聖であり義であられますから、罪ある人間を贖うために、罪なきものを罪とする必要があったのです。

血を流すことは、いのちを与えることです。なぜなら、いのちは血にあるからです。前に読みました箇所です。
ヘブル人への手紙 9章22節

 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 多くの宗教は、いろいろなことを教えているのです。なかなか良いことも教えています。
それは聖書から引用します。聖書が一番古い書物だからです。けれども、「血」ということばが出てこなければ、全く役に立ちません。意味のないことです。救いにはなりません。
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
 
 イエス様がいのちを捨て血を流された時に、主なる神のみ心は満足なさることができたのです。「わたしは、血を見るなら、災いをくださずに通り過ぎる」と。意味は、「わたしは、わたしの子、イエス・キリストの血を見ると満足する」ということです。これこそが、私たちが知らなければならない永遠に変わらない事実です。
 
 私たちは、イエス様を信じて救われる前に、私たちの良心は曇って死んだようなもので
した。けれども今、イエス様を信じる者として、イエス様に不従順なとき、それは私たちの良心に敏感に響いてきます。そのようなとき、私たちは自分ばかりを見つめイエス様の血の価値を忘れてしまいがっかりしてしまいます。私たちの罪は、イエス様の血潮の価値より大きいかのように考えてしまいます。

 私たちはどうしてそんなことになってしまうのでしょうか。私たちは何かこの身に感じたいのです。そして、その感じ方によってイエス様の血潮の価値を判断したいのではないでしょうか。それは大変な誤りです。
血潮は、まず父なる神のために流されました。イエス様の血が、父なる神にとって、どんなに全き価値を持っているかを知る必要があります。私たちの感じることは大切なのではなく、主のみことばを信じることこそ大切なのです。わかったからではありません。書かれているからです。
私たちは、イエス様の血潮の価値を知らなければなりません。なぜなら、ペテロは書いたのです。
ペテロの手紙・第一 1章18、19節

 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

主なる神が、「御子イエスの血は人間の罪を取り除くのに十分である」と、そう言っておられるので、私たちは聖なる神と人間を隔てる壁が全く取り除かれていることを信じることができるのです。主なる神は、聖であり義であられます。その主なる神が、血潮はすべての罪を覆うために十分であると言っておられます。
 
 イエス様の流された血の働き、罪の壁の廃棄について考えてきました。即ちイエス様との交わりが可能になったという事実について考えてまいりました。

次に、罪の赦しの結果について、イエス様の血潮による罪の赦しと父なる神のご臨在のうちに入ることとの関係について考えましょう。イエス様の血をよく知るなら、私たちの良心の呵責は消えてなくなるのです。父なる神は、イエス様の血を心から満足されました。このイエス様の血は、私たちにも十分であるはずです。
ヘブル人への手紙 10章22節

 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

このみことばは何を意味しているのでしょうか。今まで主なる神と人間を隔てていた、
罪という名の壁がありました。そして良心の咎を覚えて苦しんだのですが、今はイエス様
の犠牲の血は流され、この罪の壁は取り除かれ、贖われ、良心の呵責は消え去ったのです。
もし、私たちが、この永遠に変わらない事実の上に立ったなら、良心の呵責は跡形もなく
消えてしまうのです。主に近づくことができるのです。喜んで、はばからずして。

 信仰生活の土台になるものは、イエス様の血は私のために流されたという、その事実なのではないでしょうか。

 私たちが祈るとき、何を土台にして祈るのでしょうか。イエス様の流された血なのでしょうか。それとも、ほかのものなのでしょうか。
私たちは清めが必要であり、イエス様の血をくぐってはじめて、聖なる主の前に近づくことができるということを、いつも考えているのでしょうか。それとも、今日は一日おだやかだった、主のために何かを行なった、満足だというところから祈り心が湧いてきて、そのような気分を土台にしているのでしょうか。もし、気分を土台に祈るなら、それは絶望への第一歩なのではないでしょうか。

良心の平和は、気分の上に成り立つものではありません。ただ、イエス様の流された血を受けるときにのみ、平安があるのです。このことを知ることは、本当に大切です。
ヘブル人への手紙 10章19節

 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

今日は注意深く一日の信仰生活を送った。いつもよりも多く祈った。多く聖書を読んだ。
だから主の御前に近づくことができると思う人がいるかもしれません。こんなこともあるかもしれません。朝食のとき家族と何かごたごたがあったり、面白くない手紙をもらったり、また目を覚ましたときに気分がすぐれず、主との関係が何か思わしくないように思い、今日はよく祈ることができないなどということも。

 私たちは、何を理由に、何を盾にとって主に近づくのでしょうか。定まりのない、揺れ
動く私たちの感情をもとにして主に近づくのでしょうか。それとも、岩のように動かない
土台、即ちイエス様は私の罪のために血潮を流され、父なる神はそれを心から受け入れ満足して下さったという永遠に変わらない事実に基づいて、父なる神に近づくのでしょうか。

 私たちが自分の感情に支配されながらどんなに真剣に祈ったとしても、主は聞き入れて下さいません。ただ、イエス様の血をくぐって近づくときにのみ、主はその祈りを聞き届けてくださいます。イエス様の血は、永遠にその力を失いません。
ですから、私たちはいつもはばからずに、しかも喜びをもって、主の御前に近づくことができるのです。私たちが何かをしたからではありません。ただ、イエス様の流された血のゆえに、主の御前に生きることができるのです。
エペソ人への手紙 2章13節

 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

 イエス様を信じる者となった今も、やはり唯一つの理由を持って、即ちイエス様の血潮
のゆえに、父なる神に近づくことができるのです。

こういうわけで、私たちは、イエス様の血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。信仰生活の第一歩は、イエス様の血によって踏み出されます。
そして信仰生活の一歩み、一歩みも、イエス様の血によってのみ、歩むことができるのを忘れてはいけないのではないでしょうか。

 
 くどいほど、イエス様の血について話したのですが、これは信仰生活の一番初歩のことです。それはもうわかりきったことだ、もういいのではないかと思う人がいるかもしれませんが、困ることには、人間はその初歩を忘れやすいのです。
 
 死に至るまで、やがて天に召される日まで、このイエス様の血によって歩み続けなければいけません。イエス様の血は流されました。父なる神はこれを全く良しとされたのです。ですから、血潮は私たちにとっても十分、価値あるものです。


 私たちはみな、初めに話しました兄弟のように弱い者です。弱いところをたくさん持っています。でもその弱いところを見ているだけでは決して強くなれません。また、私たちのこの群れは祈りに乏しいのではないか、そう考えているだけでは何にもなりません。はばからず、恵みの御座に近づきましょう。そして主に申し上げましょう。

「主よ。私たちは、流された血潮の価値を深く知りません。けれどあなたはそれを良しとされました。ですから、血潮は私にとっても十分であることを信じます。イエス様の血潮をくぐって御前に近づきます」。 

この態度をとると、主は大いに喜んでくださいます。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集